先が見えない

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平成19年〜  20年〜25年   26年   27年

平成20年〜25年 納得がいかない
  最初に行った病院は規模の小さい
  個人病院だったので
  風邪治療の人ばかり!
  専門医も居ないし入院患者も少ない。

  治療の方法は、
  「肝庇護剤ウルソ」を飲むしかないとを告げられことで、

  自分としては
  この小さな病院だけで終わることは出来なかった。

  この町にある大病院で
  もう一度診てもらうことにしよう。

  それには夫にないしょで
  大病院には行くことは不可能。
  いよいよ話さなければならない日が来ている。

  朝からそのことを思うだけでドキドキがおさまらない。
  10時のお茶を飲みながら「今だ!」
  夫の顔を見ずに淡々と伝えた。

  夫は「ほーー」と言っただけで何も言わなかった。
  私もそれ以上のことは何も言わない。
  5年で肝硬変、10年でガンと告げられたことも…
  
  夫に話すその時間は 
  約5分ぐらいかと思える。

  その後、この小さな病院では気持ちが治まらないことを
  伝えると、
  「おー○○病院に行って来い」と言っ
た。

ふたつの大病院へ

 
  
  早速、おめあての病院へひとりで出かける。
  紹介状もなしで勝手に行ったことで
  特別料金を3000円とられる。
  
  採血5本、エコー検査をしたが
  結果はおなじであった。
  「いまは小さい病院で経過観察をして、変わったことがあったら
  この病院に来てください。繋がってますから」と医師。

  それから10日後、もう一軒の大病院にも行ってきた。
  計3軒の病院をひとりで廻ってやっと諦めと納得ができた。

  医師たちの言葉
  「65才以上の人には副作用の体力負担が大きいから
  インターフェロンはすすめられない」
  「あなたはウィルスの型が、
  治りにくい型だから治療に期待が持てない」
  「検査は、小さい病院で続けて、
  変わったことがあればこの病院と繋がっているから」と。

  変わったことがあっては困るのに!

  ここまで聞いたら少しは心が落ち着いて
  最初に行った近くの小さい病院に検査通院することにした。
  ひとまず心が落ち着いた。


 先生の転勤でショック!

  夫との会話でお互い一度も涙もなく、
  日は過ぎて行った。
  
  病院では毎回採血5本とエコー、時々CTであった。
  特にせっぱ詰まったたこともなく過ぎた。

  体重はどんどん減ってきた。

  疲れて、いつも歩く距離の散歩が出来なくなった。
  少しだけは努力して歩いた。

  食べ物の量も随分減ってきた。

  親切で丁寧な説明をしてくれるT医師が途中で
  やめてしまって
  無愛想でなにも説明なしの
  N医師に変わったのがショックだった。

  その医師はエコーの説明も、良い治療薬がいつごろ出るとも
  何ひとつ説明もなく検査用紙を手渡すだけだった。


その頃テレビや新聞で 

  その頃(平成20年頃)テレビや新聞で、C型肝炎のニュースを
  毎日放送していた。
  
  民主党の若い女性の議員さんが、
  「C型肝炎は医療行為で感染したもの、早くしないと
  もう時間がないんです」(命の切れるひとも居る)と
  机をたたかんばかりに
  厚生労働省に補償を訴えていた。

  いったいこれは何だろうと思ったが
  これは旧ミドリ十字の輸血で、C型に感染した人のことだった。
  しっかりしたカルテがあり
  感染の証拠のある人のみの補償話であった。

  たいていの人は、カルテもなく病院での証拠もなく泣き寝入り
  補償されるのは極々一部の人だと知った。

  度々通う病院代も、何の保証もなく普通に支払っての治療。
  憤りを感じるが諦めるほかはない。


 
いつの間にか5年が過ぎて 

  
  まだ先のことだと思っていたけれど
  いつの間にか5年が過ぎた。

  闘病といっても肝臓は痛くもなし
  苦しくもなし、
  やっぱり「無言の臓器」!

  私は幸いにも早くにわかったので検査をすることもできるが
  心の負担は大きかった。

  しかしこのことで
  涙を流したこともなく
  夫も普通に接してくれる。

  やっぱり「この先10年」と医師が言った、長い月日が
  気持ちを楽にさせていたのだと思う。

  ところがドッコイ!いつの間にか5年が過ぎ、
  いつも通りに検査のため病院へ。

  その日の検査で肝数値がいつもの5倍にも跳ね上がった。
  「あっ」ちらりと見たこの数値に心臓が鳴った。

  医師「色々調べた結果 肝硬変です」と言った。
  まるでこの日を待っていたかのように。(来るに決まってる)
  当然の様な顏をして。

  「そうですか」

  医師「○○病院に紹介状を書きます。ここでは何も出来ませんので」

  診察室を出て受付に行く途中、初めての涙がこみあげてきた。
  マスクで顔をかくしていた。

  「いよいよ来たか!肝硬変」

  最初の医師が言った通り、バッチリ5年で肝硬変に。
  白い紙の上に長い線を引いて
  「5年で肝硬変、そのあと5年でガン」と書いた字を思い出す。

  次の日から大病院に通うこととなる。


 
 娘にも連絡する

   話しは少し戻るが…

  娘がアメリカにいって丸2年が過ぎ
  3年目に入ったころ。

  日本に帰ったとき、再会し嬉しくて泣き、また悲しくて
  泣くのはいやなので
  思い切って手紙を書いた。

  長い長い手紙を受け取った娘は
  どんなだったろう。
  はるか遠い地で辛かったこととおもう。
  私としては顔見て話すよりは
  気が楽であった。



                                        【26年に続く】
 

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