小さなノート




 6月3日の朝。
 
 身支度をしてキチンへ上がる。 Mercia は背の高い人。使い込んだエプロンをかけて、私の朝食の用意をしてくれている。クロワッサンと、ジャム、バタ、ヨーグルトにグレープフルーツ、あるものを適当に並べてくれた感じで、こういうのも、私は気がおけなくて好きだ。
Mercia はざっくばらんな人。向かい合って二人しか座れない、この小さなテーブルに掛けてステイの間、彼女といろんなことを話した。

 Joy のオーガナイズされたもてなし方には、プロ意識が感じられて素敵だった。そしてMercia には彼女なりの、きどらない暮らし方があってこれもよかった。要するに私はどんなことにもかなり、柔軟に対応できるヒトらしい。

 Mercia は私を見ると
  Good morning. よく眠れた? 
  ハイ。あ、昨日渡すの忘れてすみません、これ、
 と£180をテーブルに置いた。彼女はにっこりとして言った。 
 
  “Oh, lovely”

  そういえば、あなた昨日の夕方、 Colin と会ったそうね。Colin ったら、あなたが泊まってること、すっかり忘れてカギをかけて、でかけようとしていたのよ。でも、ほんとよかったわ。ほんの数分で行き違いになって、あなたが自分で開けてここへ入ってたら、しばらくして警報装置が鳴る。警備会社や警察官が飛んで来て chaos (大混乱)になっていたわよ

     まぁ。

 そういえば、 Colin は私のためにカギを開けてくれた後、ドアのそばの壁に向かって、何かやっていたっけ。
そうか、あれは警報装置を解除していたんだ。
 
    ナットク。

 そして、これが「ここのつ目のラッキーだったというわけだ。

 Mercia が煮た大皿のピーチを取り分けていただいていると、
 あなた、夕べお茶をお誘いに行って声をかけたけど、静かだったわ。読書でもなさってた? 電気はずっとついていたようだけど…。
 あ、そういえば、Colin が昨日の夕方、あなたがとても疲れているように見えたって言ってたわ。今日はもう大丈夫?
 
 やさしい Mercia のことば。

 とりあえず、朝の身じまいをしたという感じの普段着の Mercia が小さなテーブルに向かい合って座り、カップを手に、ブルーの目で私を見ている。
 そうだった。昨日の夜は、一緒にお茶でもいただきましょうと言われていたのだった。最初の日だし、ちょっと
ご挨拶程度にという意味だったのよね。
 ティーカップのイチゴを指でなぞりながら、ふっと緊張の糸がゆるむのを覚えた。ちょっとだけ迷ったが、彼女とは明日さよならする人ではないのだ。

  Mercia 、これから私が言うこと、Colin に内緒にしてほしいの だけど

    いいわ。何かしら?
 
 私は昨日のことをかいつまんで話した。
 
   それで、夕べは疲れて眠ってしまったみたいなの

     まあ

    Mercia は眉を寄せて、親身に聞いてくれた。

 私もね。何年も前に、スコットランドの旅行先で、車にキーをつけたまま、ロックしてしまって、頭の中が真っ白になって倒れそうになったの。Colin に抱えられて、ホテルの部屋にもどって、気を落ち着けなくてはならなかったのよ。でもその間の記憶がほとんどないの。あなたはまぁ、なんてしっかりしているのかしら。
 

 
彼女なりの思いやりだった。そういうことを話してくれているやさしさがうれしかった。

 「あなた、これを使うといいわとさっき、私が渡した£180を指す Mercia。

  いいえ。これとそれとは別のことです。私は、日本円を少し持っていますし、Yokoに借りることができると思います。だから大丈夫です。
 なんてカッコいいことを言いながら、『借りる』と『貸す』という単語をまちがえた。

 lend でなくて borrow よ。

 あ、そうでした。よく間違えてしまうの。

 こういう場面で訂正してくれる Mercia 、そしてナットクする私もなんだかおかしくて、二人で笑ってしまった。
 
 彼女は私の滞在中、この件に関してはそれ以上詮索しなかった。何もなかったようにふるまってくれて、これはとてもありがたかった。
 それよりもこの「ハプニング」を話してから、 私たちの親密度はぐっと増した。

 朝食の後、出かける用意をしながら、
  私ね、Mercia。バッグを無くして一番残念だったのは、小さなノートなの。旅に必要なことをメモしてあったし、日記でもあったから。ボールペンはあちこちの美術館でいくつも買ってあるからいいけど。そういうノートって、どこで買えるかしら?
   
     (だってコンビニなんて、ロンドンにありはしないもの)
 
 そうなの。あ、ちょっと待って、と彼女はベッドルームから小さなノートを出して来て、包装してあるセロファンをペーパーナイフで切ってくれた。それは布製のハードカバーに包まれ、中は真っ白な手のひらサイズのノートだった。表に「HOMES&GARDENS」と、この字は若草色のうすいグリーンで浅く浮き彫りになっていて、厚さは1.3センチくらい。

 これ、お使いなさいな。もらい物だけど、私は使わないから。

 ワァ、ありがとう。うれしいわ。これ、私の大好きな色です。

 そして、このノートは私のロンドンの旅の、というより一生の『たからもの』になった。

 着いた翌日、ケンジントン公園でいっぱいおしゃべりしたあのアメリカ人女性に住所を聞かなくてよかった、のだ。もし手紙を出すわ、なんて言ったのに、来なかったら、やっぱり日本人は・・・なんて、ひょっとして思われるかもしれない。そんなの悔しいもの。
 海外に出ると、私はコロリと簡単に「日本人」をしょってしまう。それもちょこっとだけ「いいヒト」を演じたがる。

 私の旅は、だからこの6月3日からのメモしか残っていない。
急いで思い出しながら、書きはしたが。
 
 
              あとは(忘れっぽくて顰蹙を買うほどの)
                   トボシイ記憶力だのみ。






 


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